タイガーナンパーカット

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貧乳を愛するということ ~おっぱいなんていらねぇよ、夏~

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 今回は、おっぱいの話をしようと思う。だが、大きさや柔らかさがどうとかいう、よくある「俺の理想のおっぱい」を語るわけではない。そういうのは各自、友達を集めて、夜11時以降の飲み会のなかで存分にやって欲しい。

 むしろ、僕はおっぱいに関して、あまりこだわりがない。世の男性の多くが巨乳好きなことは、コンビニの棚が示している通りだし、反対に胸が小さいことにコンプレックスを抱く女性がいるらしい事も一応、知ってはいる。しかし、この巨乳強者の社会において、僕はそうではない、という立ち位置は、まず明確にしておく。

 ただし「こだわりがない」ということと「興味がない」ということは別だ。僕は、あるきっかけがあって、どのおっぱいも平等に愛せる「博愛主義者」となった。いや正確に言うと、博愛主義者である自分に気づいた。そういう話だ。

 

 かつて僕が26歳であった頃だ。当時の僕は、彼女以外の女性とセックスすることも、まして付き合う前にセックスなんてありえない、という社会的には極めて健全な観念を持っていた。女性と出会うのは、週末に友人の誰かが用意する合コンの場ぐらいのもの。

 3人目の彼女とも、そういう解りやすいぐらい、ありがちな出会いをした。

 

 彼女のことを描写しよう。細身の170cmという長身で、すらりとしていて、モデル体型。胸元まで届くほどの長いストレートの髪をしていて、ちょっとタレ目気味で、花澤香菜(アニメ声優)みたいな柔らかい声をしていた。実際、その声にふさわしく、かなり天然な性格だった。

 彼女のことは可愛いとも、ファニーだとも思っていたけれど、いまいち僕の好みとは外れていた。だから、彼女からの強いアプローチと告白がなかったら、付き合わなかったんじゃないかと思う。

 

 そんな健全な僕と彼女は、何回かのデートを重ねて、初めてのセックスをする夜を迎えた。

 当然ながら、僕は興奮していた。ホテルに向かう道のりから、すでにBOKKI CODEは昂ぶりを見せていた。加えて、風呂あがりなのに、きっちり服を着込んでくる、という彼女の慣れてない純朴な一面は、僕のそれに更なる火をつけた。

 そうして服を脱がしていき、ブラに手をかけた瞬間、彼女は言った。

「私、ムネ…ないから……」

 当初、僕はこれをフェイクだと思った。というより、太ってない女の子が謙遜して「太ってる」っていうアレの類かと思った。だから冷静なふりをして「気にしないよ」とか、そのようなことを言った覚えがある。

 相手は何度か「本当に?」と訊くたびに、笑顔で「大丈夫だよ」と言った。

 そして、片手で僕はブラを外した。 

 

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 無 乳 だ っ た 。 

 

 ……正直に言うと、この展開は全く予想していなかった。

 ブラジャーを外したら「ない」なんてことが、この世にあるなんてことを僕は全く考えていなかった。君も(胸が)ない。僕も(こんな事態を想定して)ない。あるのはパッドだけだ。

 たとえて言うなら、女子マラソンランナーのごとき大きさというべきか。それとも、大きさは僕ぐらいというべきなのか。とりあえず、胸に手をあてたら、すぐ骨だ、という感触があったが、それでも相手からの反応があった。無論、問題なく行為はできた。ただ、僕のなかに驚愕は残り続けていた。

 

 終わった後も、彼女を抱きしめながら「本当にないんだね」と何度も言おうか迷った。しかし、すごい気にしていたのは何度も事前に確認されていたことから明らかだったので言えなかった。それでも僕は、この事態をどう受け止めるべきか脳内の処理に困っていた。「彼女が無乳でした」。どうすればいいんだ? どうも出来はしなかった。彼氏として、僕は受け止めるしかないのだ。

 

 そうして彼女との交際の日々は続いた。その頃の僕は、すごく仕事に燃えていたこともあって、彼女と会うのは、月2回程度だった。会うと生理以外は、まぁ大体セックスした。繰り返すが、無乳の彼女とセックスした。

  そのうち気づいたのは、むしろ前の彼女の時よりも興奮している、という事実だった。前の彼女はDカップだった。Dカップよりも無乳に興奮している。そんな自分がいることに驚いていた。なぜなのか?

 

 もちろん前の彼女よりも好きだった、という単純な理由もあるだろう。だが今になってみると、それだけではないということがわかる。

 

 こういう性的興奮を、どう説明すればいいのだろう。裸の彼女がいる。長髪の、いかにも女の子って顔をしているんだ。だけど上半身は、平たい胸で、まるで少年のようなのだ。小学校の頃、水泳の授業で何度も観たようなやつさ。

 そう。こんなにも、少年のようなのに『女の子の部分』は、しっかりあるんだ、という姿。僕は、そこに性的倒錯を覚えたんだよな。特に初めての時、あれはもう驚きなんてものじゃなかった。SPARKだった。こんなにも、こんなにも、少年のような上半身なのに、下は大人の女性なのだ。まさに「新しい何かが俺の中で目覚める 世界は回る」*1だった。

 

 女の子に胸があって、大きいなんて、ある意味、当然のことなんだ。そういうのに惹かれるのも当然で、ふつうだと思う。だが「そうじゃない」から凄いんだ。「そうじゃない」から興奮するんだ。おっぱいという女性の象徴を奪われても、存在する女性としての性。この歪(いびつ)さに反応する情欲衝動というものを僕は確かに感じていた。

 

 たまにある友人同士での飲み会のこと。深夜ともなると、ちょっとは下ネタも出てくる。今でも覚えている。「僕の彼女、ムネないしさ」とポロリと口にしてしまった時のことを。彼女の顔見知りである友達は「確かに、あの子は小さそうだよね」という相槌を打つ。僕は心のなかで強く否定していた。違う。違うんだよ。「小さい」じゃないんだ。

「ない」んだ! おまえは知らないだろうが、あの子は「ない」んだっ!!

 

 だけど、こんなことを主張したところで、いったい何になるというのだろう? ただ彼女のコンプレックスを面白おかしく伝えてしまうだけではないか? 本人ですら隠したいことを、わざわざひけらかすなんて彼氏として失格じゃないのか、という気がして、代わりに、彼女の秘密と、ウーロンハイを一気飲みした。酔っていたのに、なんで今もこんなこと覚えてるんだろうってぐらい鮮明な思い出。

 

 結局、彼女とは、出会い方と同じぐらい、よくある理由で別れることとなった。その後、僕は付き合ってなくても、隙あらば性行為をしたがる性人(サガット)になった。

 これがきっかけで、めでたく僕が貧乳派のステップを踏んだかというと、そんなことは全くなく、どんな大きさ・形の、おっぱいでも等しい興味を持って、性交渉に臨む日々が現在進行形として続いている。どうやら、あまりこだわりはないらしい。

 

 ただし、僕は、この一件があって、おっぱいについて語れることが、ひとつ出来た。それは世のメディアが、あまりにも「おっぱいが大きい女性」こそ、男性の性的衝動を煽る、わかりやすいシンボルのごとく挙げられているが、プライベートなセックス観においては、決してそうではない可能性も存在するということだ。上に書いたように「ない」ことも、立派な武器たりえるのだ。

 彼女を通して学んだのは、女性らしさというのは、おっぱいのみでは失われず、ないからこそ際立つこともあるのだということ。1ブログとして、メディアに毒されない「ない」おっぱいにも魅力があることを僕は伝えていきたい。

 

 どうか貧乳の女性は落ち込まず、胸を張って欲しい。ないからこそ、張るべきなのだ。

 

 

 

 

 

 
THE YELLOW MONKEY「SPARK」 - YouTube

 

*1:Youtube参照