銀座の彼は対岸の向こう
正直に告白すると、先月から一ヶ月以上、女性とは全く遊んでいませんでした。女から「最近どうですか?」とか「旅行に行ってきたんだけど、お土産を渡したいの」的なLINEが飛び交うなか、徹底的な既読スルーを決め込んでは、仕事と読書に没入するという生活をしていた。自分には昔から、こういう時期があって一旦そうなってしまうと、なにも出来なくなってしまう。たとえば10代の頃ですら「ペンギンクラブ」を片手に、猿のようにマスターベーションに励んでいた日々が、いきなり終わりを告げ、半年以上もの間、純文学に傾倒していたりしていた。中高生なんてエロスの権化のごとく思われがちだが、少なくとも自分の学生生活の4分の1は小室友里ではなく、谷崎潤一郎や大江健三郎といった存在が興奮のターゲットであった。要は、これが自分の仕様である、ということが言いたい。
とはいえ「どうでもいい」と思わなくなる日々なんて、一体どうすればそんなふうに戻るのか解らないまま、仕事あがりに、マツモトキヨシでシャンプーをカゴに投げ込んだある日、友達のサカモトから「久々に夕飯でもどう?」という連絡がきた。
彼のプロフィールを、一言でいうなら、外資系生命保険のセールスマンで高所得者の、まあプチ成功者ってやつだ。同い年でもあり、営業仕事の傍ら、出会った女の子と時折、お遊びをするような、ナンパ以前からの数少ない遊び友達だったが、2年前、彼が結婚したこともあって、あまり会わなくなっていた。僕たちは「女」で繋がっていた仲ともいえるから、そういう意味では「同類」というニュアンスの方がしっくりくる。
営業の人間は何百人も知っているけど、トッププレイヤ一になると数千万の年収をたたきだせる、外資生保のセールスマンは「安心感・頼りがいを演出する」ことにおいては、桁違いに上手い。気遣い、笑顔、トーク戦術。大富豪を顧客に持つような、トップのセールスマンとは何人も話したことがあるが、そこいらの営業が霞んでしまうほど、自身を魅力的な人間に振舞う。そういう普段の仕事のスタンスに、ちょっとアレンジを加えれば、女を抱くことなんかわけないということを、彼を通して学んだし、最初の頃、女性の前では、僕は彼の振る舞いを真似していた。それは所詮コピーキャットでしかなかったが、それなりに有効だった。
2年ぶりだった。彼は生保以外の金融事業に手をつけ、年収は30%も押し上げていた。会って5分後の告知。彼は褒められたがりで、自慢したがりだ。爽やかな見た目と、柔らかい話し方とは裏腹に、本音は、徹底的に金しか興味がない。おそらく苦手な人間もいるだろうが、こういうシンプルな価値観を、僕自身は嫌いではなかった。
「この2年間は遊んでた?」と僕が訊くと「いや、嫁さんが好きだから、なにかあったらと思うと怖くてね。あまり手を出してないよ」と彼はニコニコして答える。
あまり、ね。
「そっちは相変わらず?」
「今月は何もしていない」と囗に出した。他人に向けて言ったのは初めてだったから、我ながら驚いて、思わず繰り返してしまった。「まったく、ナンも、していない」
驚かれたが、本当なんだからしょうがない。
ナンパ師なら頷く人もいるだろうか、何百人もの女の子と会ったところで特段、面白い話が聞けるわけじゃない。昔は新鮮さもあって、女の子の話を楽しんで聞いていた。だけど繰り返すにつれ、少しずつ飽きてしまう。ほとんどの女の子は特別じゃない。ふつうの学生か、ふつうの事務OLか、販売員か、美容師か、エステティシャンか、看護師か、保育士か、受付嬢か、秘書か、主婦か、それらのうちのどれかで、そして、それらの仕事の愚痴と恋愛話の大半のパターンは聞いてしまった。もう一度、楽しみを見出すのは、今ちょっと面倒だ、と説明した。
「でも僕から見たところ、2年経っても、○○くんは一見、何も変わってないような気がするけど?」
「外見のことなら、よく言われる」
「それもあるけど」彼は、いつもニコニコしている。それが成功の秘訣だという。「今度、2人の女の子と、銀座でディナーを一緒にするんだけど、ひとりメンズを連れてきたかったんだよね。僕は既婚者だって相手に伝えちゃってるから、○○くんだったら、容姿もステータスも文句ないんだけど、どう? 来る?」
「行く」
即答した。彼は平均以上に可愛い子しか連れてこない。
「ほらね」
二コニコしながら言われた。
現場に着く前に、昔のことを思い出していた。言うなれば、かつて僕は、彼のウィングだった。とはいえ彼の目的はセックスではなく、保険の契約だったから、合コンだったり、ホームパーティーだったり行っても、彼は女性に手を出そうとはしなかった。むしろ【何もしない】ことで誠実さと安心感を与えて、その上で女性を外貨保険に誘っていた。
僕の見る限り、彼のやっていることは、いわばホストの色恋に近かった。もちろん全ての相手じゃない。かつて20代後半だった彼が、同年代の女に「セールスを仕掛ける方法」は、金融商品の信頼性なんかを説くより、色恋のほうが手っ取り早かったから、そうするのに躊躇なかったって感じだった。そうやって契約後、惚れて顧客になったブスが寄ってきても「お客だから出来ない」と手マンでなだめて、一方、可愛い子なら甘い言葉を重ねて抱いた。もっとも彼のステージがアッパーマーケット(富裕層)に移行してから、その手段は必要なくなったとも聞いていた。
僕たちはコンビではあったが、最終的な目的は別だったから、コンビであり続けられた。
女の子がどうとかいうより、久々そんな彼とゲームが出来ることが楽しみだった。
銀座のイタリアン・レストランにいたのは、エステティシャンと、古参商社のOL。どちらも28歳だという。自己紹介された時から予想がついていた通り、恋愛トークを振れば「出会いがない」と彼女たちは口を揃えた。特にエステティシャンが「周りが女性ばかりで若い男性と知り合う機会がない」なんて話は、もう2000回は聞き飽きた類のものだ。ベタにベタを重ねた身の上トーク。隣に座った彼だって、そうに違いないはずだが、相変わらず「そうなんだ! そんなキレイだから出会い多いと思ったけど、意外だし、もったいないよね!」と初めて聞いたように驚く。このあたりの演技は憎らしいぐらい堂に入ってる。
彼のやり口は、以前とあまり変わっていなかった。「彼氏はいるの?」→(いない)→「どれぐらいいないの?」→(○○ぐらい)→「そんなに!?」→(だって私かわいくないもん)OR(出会いないもん)→「僕が良い男いっぱい知ってるから紹介してあげるよ」というシナリオ。たぶん事前に、自分のステータスの高さを振りまいてるはずだから「こんな人が紹介するイイ男」と彼女たちは期待する。僕も、また彼に紹介された「イイ男」を演じる。そうやって自分の好感度を少しずつ高めていく。こうして文章に落とすと拍子抜けするぐらい簡単だが、そもそもトークに「台本」があるなんて彼女たちは気づかない。
ただ、同じ手口を続けてきた彼と、僕に明確に違ったものがあった。それは当時より、僕の経験値が高くなっているということだ。控えめに言って彼女たちは「撃てる」案件だった。特に、OLは「今年の春だが、部署が変わったのだが、仕事がヒマで、定時帰りで毎日がつまらない。だれかに誘って欲しい!」とか「明日も家事しかやることがない」と言うチャンスボールがドバドバ渡ってくる。
そのため話を聞きながら、相槌を打ちながら、僕は彼とは違うゴールへのシナリオを構築していた。だから「彼氏がいなくなって、どれぐらい?」のルート通りの質問に対して「もう2年ぐらいかな」とOLが応えるや否や、すかさず「2年も彼氏いないって、もったいないよね」と僕がインターセプトした。
「そうかな?」
彼女が聞き返す。
「そうだよ。でも、いないからって、その間、男の人とデートぐらいしたでしょ?」
「まぁ何度かあるけど、結局うまくいかないんだよね」
「そのうち、ひとりの人と最高何回デートをした?」
「4回……かな?」
「そんなにデートをしたら、絶対キスぐらいしたでしょ?」
慎重に入る。
「え~?」
照れてはいるが、嫌がる様子ではない。いける。
「どうなの? 仲が深まれば、それぐらい普通でしょ?」
「やっぱり、そういうものかな」
「そうだよ。もうアラサーなんだし、場合によっちゃセックスだって普通だと思」とまで言いかけた、その時。
舌打ちされた。僕にだけ聞こえるような音で。
誰だかわからなかった。だって笑顔が張り付いている奴が、急に舌打ちするなんて思わなかった。そのまま彼が「まぁそういうこともあるかもね」と僕が言いかけた台詞を無理やり話を締めた。まさか、こんなマイナスの対応がくるとは思わず、何故? と自分は狼狽してしまい、パス回しを止めた。この後の展開も同じだ。めげない僕が、ちょっとでもセックスと下ネタに触れようとする度、封殺された。ハンドテストすら横から叩かれる、という徹底ぶりだった。
女性ふたりがトイレに同時に立つや否や、僕は彼に噛み付いた。
「どういうことだよ。邪魔をしないでくれよ」
「それは、こっちの台詞だよ。あんなところで、下ネタなんか言って女の子が引いたらどうするんだよ」
「ちゃんと場はわきまえてるし、そうなったら、すぐやめるさ。そもそも30手前にもなって、1回や2回のセックスって単語で引く女なんていやしない」
「いるかもしれない」
聞き入れてもらえなかった。我慢して通常の恋愛トークだけにとどめた。まさかの反論に正直、立て直すには脳が追いついていけなかった。戦術がないわけではなかったが、なにか踏み込めば彼が邪魔をしてくると考えると、躊躇してしまい前にいけなかった。
そんな感じのまま会計の段になり、2万円以上の飲み代を、男子ふたりで分割して払うこととなった。ここまで、まったく面白い展開ではない。
だから、せめて確度の高そうなOLを、どうにかセパろうと目論んでいたにも関わらず、彼が彼女を独占して、さっさと放流させてしまった。僕も、彼女の友達のエステティシャンも、別れの言葉を言う機会さえ与えられなかった。残ったエステティシャンは、少しカタメだし、そもそも仕上げていなかった。終電前で狙うには無理があった。LINEゲだけして、別れた。
僕が狙っていたがゆえに、彼がOLをロックしていたのも、エステティシャンを残したのも、彼女を僕が仕留められないのも、すべて彼の計算によるものだ。
「持ち帰れなくて残念だったね」
それでも、ぬけぬけと彼は言う。
「やりたいように、やらせてもらえなかったからね」
こういう負け方は、はじめてだった。
「2年ぶりにあって、下ネタを言うようになったのが、君のやり方だっていうなら下品になったと思う。あんなやり方じゃ女の子はついてこないよ」
彼は、ニコニコしながら、自分はわかってるように言う。
僕は眉を歪めるだけだった。
それから2週間後、僕は件のOLとアポをした。最近の僕は個室居酒屋にも行かない。ギラもしない。触れさえしない。言葉だけで誘う。多少レトリックは必要だが、ストレートに「したい」と口にするだけで、ついてくる女性はいる。ナンパをはじめて、アポを繰り返して、僕が知ったことのひとつ。彼が言っていた「あんなやり方」は、ザクザクと相手に通じた。
当然のように北口に行った。進研ゼミの販促まんがみたいなもんだ。「この問題、チャレンジに出てたぞ」ってぐらいの知ってるパターンを、知ってる攻略法で、準即した。難をいえば、休憩ではなく、彼女が泊まりにこだわって、少々値が張ったことが失敗だったが、それは仕方がないと割り切るしかない。
女の子がスースー寝息を立てている横で、彼のことを思い出して「わかってないのは、君の方だったよ」と僕は、ようやく2週間ぶりに反論の言葉を口にした。